女優・有馬稲子さんの終(つい)の棲家(すみか)

高齢者専用の横浜の分譲マンションに移られた女優・有馬稲子さんの終(つい)の棲家(すみか)



(つい)の棲家(すみか)に関する参考サイト
以下のサイトも是非、ご覧下さい。


高齢者の住まい:団塊スタイル「どうする?60代からの住まい」 (その1)

コーポラティブハウス

仲間と作る“コーポラティブハウス”の“終(つい)のすみか”(その1)

サービス付き高齢者向け住宅

多摩平の森(旧多摩平団地)(その1)住棟ルネッサンス事業の概要 

老後は豊かに 賑(にぎ)やかに〜“多世代同居”の可能性〜(その1)コレクティブハウス(1)




女優・有馬稲子さんが代々木の普通のマンションから、高齢者専用の横浜の分譲マンションに移られた経緯や、
現在の高齢者専用マンションでの生活については、
テレビや講演会、日本経済新聞の「私の履歴書」(2010年4月掲載)
等で度々語っておられますが、
高齢者の住まいの在り方について多くの示唆を含んでいると思いますので、
皆さんの参考までに概略を紹介致します。



 
物置のドアを開いて愕然(がくぜん)

「私の履歴書」(日本経済新聞2010年4月掲載)より
『横浜(の高齢者専用の分譲マンション)にくる前は代々木のマンションに住んでいた。
(中略)地下に各戸の物置があり、待ってましたと私はそこに宝物を詰め込んだ。
旅の思い出の詰まったトランク、いつかまた練習するつもりの乗馬のブーツ、
自分の映画を見ようと、とってあった古い映写機、
有馬稲子と大きく書かれた、ぼてと呼ばれる旅公演用の行李(こうり)など、
あれやこれや。


9年後、横浜に引っ越す為にその物置のドアを開いて愕然(がくぜん)とした。
ほとんど入れた時のままで、
哀れな私の宝物はその間まったく出番が無く、休眠状態だったのだ。』




「しまい込んで1年間使わなかったものは、2度と使わないもの」

『ぼてだけは早稲田の演劇博物館に寄付して、その他の物は殆ど捨てて横浜に向かった。こうして私は高齢者の暮らしの大事な教訓を得た。

「しまい込んで1年間使わなかったものは、2度と使わないもの」。
思い出は品物ではなく心に刻むものなのだ。
こうして平成17年、横浜の高齢者が多く住む分譲マンションに引っ越した。








総戸数4百数十戸。ここで私は新しいものを沢山学んだ。
沢山の人達と一つ屋根の下に住むという体験、
時間が来ると大食堂に集まって食事を取るという体験、
ロビーで新聞を読みながら世間話をする体験、
そのどれもが私には新鮮だった。』



 
廊下ですれ違う時は誰もが穏やかに言葉を交わす・・・

『引っ越しをためらっている私の背中を押してくれた親友の
「船酔いのない船旅だと思えばいいよ」という言葉は、まったくうまい言葉だった。(中略)


年をとってから友人をつくるのは難しいのではと言われたが、まったくの杞憂、
社会の体験豊富な同居者の皆さんは、それだけで素晴らしい人材の宝庫で、

前の住まいから持ち込んだ鉢植えのバラが引っ越しの疲れでぐったりしたのを、
見事に甦(よみがえ)らせてくれた人が友人の第1号となった。


廊下ですれ違う時は誰もが穏やかに言葉を交わす、
そんなことがこれほど心を慰めようとは思ってもみなかった。』






『高齢者用の豪華な住まい広告でよく見る大理石の壁、真鍮のピカピカの手すり、そんなものはここにはない。

ただ33ものクラブがある。短歌の会、句会、何種類ものダンスや音楽の会、ブリッジ、囲碁将棋、麻雀にビリヤード、人生の楽しみ方をご存じの方がいっぱいなのだ。

映画のコレクターがいて、管内の専用チャンネルで映画界も開かれる。
嬉しいことに「東京暮色」や「浪速の恋の物語」も上映された。』





『ある雑誌で読んで、NHKの朝のテレビで話して驚くほど大きな反響をもらった
先人の言葉がある。


「夏羽織一枚を残して死ぬ」

つまり人の一生はほぼプラスマイナスゼロ、
僅かに夏の羽織1枚を残す程度に終えるのが理想だという意味なのだ。

もちろん、いま私はこれを大切な指針としている。』



『私が私淑していた多田富雄さんが21日、76歳で亡くなられた。
日本を代表する免疫学者で、しかも能楽にも造詣が深く、大倉流の小鼓を打たれた。
病魔は人を選ばない。
60代半ばで脳梗塞に倒れ、半身不随で言葉を失いながらも、驚くべき意志の力で執筆活動を続けられた。
過酷なリハビリ、ある日麻痺していた右足の親指がピクリと動いた時に、
奥様と二人で感動して泣いた場面は、何度読んでも胸迫る。』



『(中略)この項の第1回にかって錦之介さんと新婚生活を送った家を訪ねたことを書いた。

薔薇の木を10本植えた後、花を見ないまま後ろ髪を引かれる思いでその家を手放した。

後にその家を訪ねると、薔薇はまるで枝垂れ桜のように咲き誇っていた。
嬉しかった。花には人間の思いを超えてその美を主張する力がある。

しかし、更に半世紀たって、去年訪ねた時には、建物も庭もすべてが姿を消しその土地は更地になっていた。』




『(今住んでいる)横浜のマンションの裏手に、
ということは余り日当たりの良くない場所だが、少し空いた土地がある。そこに花を植えようと思った。


管理組合の許可を得て先ずはペチュニアやインパチェンス、バラも4,5本植えた。
集合住宅に途中入居すると、うちとけるのは難しいと聞くが
この花たちが素晴らしい仲介者になってくれた。


通りすがりの人が作業をしている私に「お花きれい。ありがとう」と声をかけてくれて、自分も参加したいという人も次々現れ人の輪も広がった。』




『このマンションにはいろんな専門家がいる。
ある方はこの庭に「モネコ・ガーデン」と命名して下さった。
フランスのジベルニーのモネの庭を、稲子が真似たという言葉の遊びだ。
同じ階の美大の教授が何とその名前を書いた可愛い看板を作って下さった。




余談ながら森光子さんの放浪記の2000回公演のお祝いには、
教授の見事な樹の絵の傍に、私が「報労樹(ほうろうき)」と書いた色紙をお贈りした。』


『京都の庭が消え去った喪失感を
マンションの裏の庭に咲いたペチュニアの一輪が
十分に埋め合わせてくれることを知った。


小さいが実際に役立つ知恵と率直な人間のつながりが
終の棲家のもっとも大事なもの。


今の暮らしが続き、又「私の履歴書」を書く機会があったなら、
今度は明るく楽しいことを満載できるのではと思っている。=おわり』




テレビ朝日2008年11月5日放送の「徹子の部屋」
女優の有馬稲子さんが出演され、横浜のマンションに移られた近況を語っておられました。


生きていれば誰でも必ず巡ってくる老後の生活について
非常に示唆の多い話でしたので、以下内容の一部を紹介します。



黒柳徹子
「貴方が移られたマンションは、55歳以上で、
自分で何でも出来る方が条件なんですね。」

有馬稲子
「そうなんですよ、自分で何でも出来なければいけない。 
ですから、皆さん、クラブ活動も凄くて40ぐらい色んな活動があるんですよ。 
それで色んな方にお会いして。 

私、嬉しいのは、前にいたマンションも良かったんですけど、
中々、訪ねないとお会い出来ない。


しかし、そこ(今のマンション)は、晩だけ食堂にご飯を食べに行くと、
皆さんいらっしゃるでしょう、色んな方にお会いして、
色んな話を聴けるのが」


黒柳徹子
「お部屋にお台所があるから、朝昼は自分で作っても良くて、
夜は食堂にいくと、皆がいる、知らない方でも、宝塚のお友達でも、
兎に角色んな方がいらっしゃって。

 

食堂があるほかに、大浴場、ゲストルーム、お茶室、陶芸室、サークルルーム、
図書室、ケアルーム、(サークル活動も)麻雀、詩吟、句会、カラオケ、
太極拳、色んなことが出来るようになっていて、」


有馬稲子
「世帯数が多いから。 色んな方にお会いするんですね。 
そして、(マンションの)裏が凄いんです。 

大きな公園があって、そこを歩いていると森林浴をしているような・・・」





「(マンションの)食堂や裏の公園で色んな方にお会いするんです。 
皆さん声をかけて下さって、私が一寸記事を書いたりすると
それをちゃんと読んでいて下さって、こうですよ、ああですよ、と言って下さって、」


黒柳徹子
「ああ、いいなーと私も思うんですよ。 私も一人だから。
暮らしていくのに、そうゆう風に、皆と知り合いになって、
ご飯を食べに行くところもあって、自分ひとりでも食べられて、
自由があって、元気で動ける間は。 
そして万一の場合は、どなたか来て下さる方もいらっしゃる・・・」

有馬稲子
「この間も、私、一寸、具合が悪くなって、夜中に電話したら
直ぐ、看護師さんが飛んできました。
看護師さんが常駐なんですよ。」


黒柳徹子
「夜、お休みになるのが凄く早いんですって?」

有馬稲子
「そう、9時半ぐらいに寝なきゃあ駄目なんです。 
朝、7時半に朝食の用意が出来ましたって放送が入るので、
どうしても7時半に目が覚めちゃうんですね。その為に早く寝るんです。 

朝起きて、お湯を沸かして、コップなどを煮沸消毒して、
私、消毒が趣味なんです。
  

それから散歩をして、足の調子が良い時は(有馬さんは舞台公演で
足を痛め、手術をして足に金属を入れています) 
1万歩くらい、駄目な時は、それでも2,000歩ぐらい歩いて、
それから勉強をします。  
歩かないと頭の血が廻らないというか、それで必ず、歩くんです。」

黒柳徹子
「でも、あれね。この間お会いした時よりも健康そうな感じがする。全体が。 
やっぱり、空気の良いところで、早寝・早起きしてらっしゃるからかしら。」

有馬稲子
「(今住んでいるマンションには多くの人がいて)色んなことを言ってらして、
多田富雄さんの記事が出ていたんです。朝日新聞に。


そうしたら多田富雄さんの事を教えて下さった方がいて。
この方は東大教授の免疫学者ですけど、
或る日突然、半身不随になっちゃうんですよ。


言葉も出なくなって。
それで自分がどうやってリハビリをしていくかという事が書いてあるの。
感動的なんですね。 

私、今、この方に夢中になって心酔しているんですけど、
この本【多田富雄著「寡黙なる巨人」集英社1,575円税込】を、
是非、日本中の方に読んで頂きたいって思うんですね。

それぐらいの素敵な方なんです。」


黒柳徹子
「それで、マンションの皆さんにお読みなさいって言って・・・」

有馬稲子
「そう、こういうことがあると直ぐ言うんです。
それから自分の仕事も、どこそこに出ますからねって言うと、
京都まで見に来て下さったりするんですよ。」


黒柳徹子
「随分、いいですね、貴方! 
そうするとそこで好かれるようにしてないといけないわね。
普通にしていればいいんでしょうけど・・・」

有馬稲子
「私、別に悪い人じゃあないし・・・そう、嫌われないと思うんですよ。」

黒柳徹子
「そうそう、そう思うわよ。 大丈夫よ。
昔、映画を見ましたよ、という方もいらっしゃるでしょうし。」

有馬稲子
「昔の映画を観ている会もあるし。 
私、今から陶芸と書道の会に入ろうと思っているんです。」

黒柳徹子
「そういうのは、皆、自分達で作るの?グループを・・・」

有馬稲子
「自分達でやってるんです。
自分達で運営しているというか・・・皆さんが。」

黒柳徹子
「もし、紙がいるとか、墨がいるとかは、お金を一寸、出し合って、
集まってやればいい・・・それは凄く良いと思うんですよ。」


黒柳徹子
「でも、そうやって決心なさって、お一人の老後を率先してやっておられるのは
良いなと思います・・・」


有馬稲子
「老後って言われても一寸、困るんですけど・・・皆さん、それは元気ですよ! 
私も囲碁を一寸勉強したいと思ってるんですけどね」


黒柳徹子
「そういうのは、お得意な方がいらして始めましょうと仰るんでしょうからね」

有馬稲子
「ビリヤードから、コントラクトブリッジ・・・いっぱいありますよ。」

黒柳徹子
「私やってみたいと思ってるのよ、ビリヤード」

有馬稲子
「どうぞいらして下さい。」

黒柳徹子
「いいわねー」
「いずれにしても貴方の今いらしている所は、
元気であれば入れるという所で、本当に普段から、
自分の事は自分で出来るって、若い時からやってなければ駄目ね。」


有馬稲子
「そうなんですよね。私はパソコンなんて弱いんですね。 
私の友達がパソコンが出来ないとこれから生きてゆけないわよって言うのね、
彼女が。
これから習おうと思っているんですけどね。 
なさいます?」

黒柳徹子
「少し、一寸だけね」

有馬稲子
「私、本当に機械に弱いから生きていけないかもしれません、これから・・・」
「(京都で錦之介さんと住んでいた家は広くて)4人お手伝いさんがいて
私が先頭になって掃除をしていましたが、
それでも間に合わないくらい大変でした。


(それに較べて)今の部屋は凄いですよ。
宇宙飛行士が飛行船の中に入っているみたい。 
小さいですからね。一部屋ですから。 
もう、もがきながら。 
台所はレンジが一つしかないの。
だから使い方を頭で考えるでしょう・・・」

黒柳徹子
「でも今は、それで満足して、これでやっていくぞって」

有馬稲子
「決心しているところね・・・」

黒柳徹子
「でも、偉いと思う。 
そういう風に自分で考えていかなければ、これから駄目だと思う。」

有馬稲子
「それとお友達よね。 お友達がしっかりした人がいてくれる」

黒柳徹子
「その宝塚の方が先輩?」

有馬稲子
「同期生なんだけど、年が上で、しっかりした方なんです。 
ですからその人にリードして貰っています。」

黒柳徹子
「そうでなくとも、色んなお友達がいらっしゃるから。お友達は大事よね。」

有馬稲子
「大事ですよ。本当!」

黒柳徹子
「お友達も大事! 
それで体を鍛えておいて、どんな時でも直ぐ、“はい、大丈夫ですよ”って、動けるようにしておかないとやっぱり、大変だって事ね・・・
そうやっておかないと、若い時から皆、頑張って・・・」


有馬稲子
「そうですね。
若い人は、何だ他人(ひと)の事だと思って見ていても、
直ぐ、この、後期高齢者になるんですよ」


黒柳徹子
「そうよ! もう一瞬ね!
はっきり言って、今、若い方が、へん、あんな事を言ってる、
なんて言っても、50なんて、“えっ”、と(首を廻して)これぐらいね!」

有馬稲子
「そうです。」

黒柳徹子
「私、50の時、そう思いましたよ。“えっ”と(首を廻す)、
これぐらいで、もう、50だわってね。 
で、後は、10年ずつ、束になって飛んでいくそうですから。 
50過ぎたら。」
(注:黒柳徹子さんは1933年8月9日生まれの現在79歳)

有馬稲子
「そうですか、束ですか・・・」

黒柳徹子
「束ですよ、貴方。束ですから、バン、バンと飛んで行きますから、
やっぱり、それに対応するにはね。」

有馬稲子
「旅に病(や)んで夢は枯野を駆け巡る。というのがありますけど、
本当にね、最後はね、旅に行って、旅先でぽかんと死にたいと思っているんですけどね・・・」


黒柳徹子
「私、本当に思うのよ、鳥なんか見てると、アルバムなんか持ってないじゃあないか、
写真なんか持って無くても、ああやって身軽に飛んでいる、
あれで良いじゃあないかって、思うんですけど、
仕事をしているとねー、そうもいかないので・・・

夏羽織一枚じゃあ、一寸、仕事も出来ないし・・・」

有馬稲子
「(うなずいて)出来ない・・・(夏羽織一枚は)それはもう、理想です・・・」

黒柳徹子
「でもまあ、そう思いながら生きて、贅肉をつけないように生きていけばね・・・」

有馬稲子
「私ね、前世はイギリス人だったんじゃあないかと思うぐらいイギリスが好きなの、
その癖、英語が出来ない」


黒柳徹子
「でもまあ、イギリスも広いから、日本語が出来る人もいるかも知れない」

有馬稲子
「少し期待を持ちましょうかしら・・・もう、イギリスの田舎に住みたいの・・・」

黒柳徹子
「ほんとに、私この間一寸、通ったけど、本当、良かったわね。 
7つの海を支配したっていうのは、ああゆうところにお金をつかったのだなと思うくらい、(イギリスの)田園は良いですよね。」